私が昔住んでいた地域の主要駅は、バスターミナルが常にホームレス臭いところでした。
でも日中姿は見当たらず。そんなところでした。
ある夏の日、私は帰り路で急いでバスに乗ろうとしていました。
ターミナルに降りようとエスカレーターのほうを見たその時です。
ガンジーのようなやせ細った、日焼けしたおじいさんが新聞紙を敷いてジャンプ(少年誌のあれです)を読んでいる姿が私の視界に飛び込んできました。
何かして差しあげたい。でも私にできることなんて何もない。
そう思って私はおじいさんの横を通り過ぎ、エスカレーターに乗りました。
下に降り、バスを待っていたのですが…なかなかさっきのおじいさんの姿が脳裏から離れませんでした。
私にできることはお金を渡すことくらい。でも所持金は2,500円。
さてどうするか。
考えて考えて、結局私は思いました。
今までもこうだったじゃないか、と。
いままでホームレスの方に遭遇したことがないわけありません。
でも私はそれを見るたびに、見て見ないふりをしてきました。
そして後になって、やっぱり何かできたのでは、と思っていたのです。
やるなら今だ、と思いました。
エスカレーターに乗っておじいさんのもとへ。
「ごめんなさい、私も少ししか持っていないからこれしか渡せないんですが…」と言いながら1,000円渡しました。
そうすると、おじいさんは私が話し終えるかどうかのうちに、そのガンジーのような身体を折り曲げて「ありがとうございます、ありがとうございます」と言いながら土下座するのです。
私はなんだか、自分の心の汚い部分が露わになるような気がして「そんな、やめてください大丈夫ですから」というのが精いっぱいでした。
正直、声をかけるまではかなり不安でした。
「同情してもらうほどじゃない!」とか、「そんなものいらん!」とか、仰る方も居るのではないかと思っていたのです(これは電車の座席譲りでよく聞く話ですね)。
私の敬愛するマザーテレサは、こうやって(彼女はお金を渡したことはなかったと思いますが)貧しい人々、その中でも最も貧しい人々に接していたのだと思うと、おじいさんに渡せたことがなんだか清々しくも思えてくるのでした。
(今考えればこの感情は完全な自己満足です)
ですがここは人通りも多い駅のバスターミナル。
はたから見たら完全に老人に土下座させている若者です。
そもそもおじいさんは何も悪いことはしていないし、私の自己満足にお付き合いくださっているのだから、私の方がお礼を言いたいくらいだったのですが口が動きませんでした。
ともかく、おじいさんをずっと土下座させているわけにもいきませんし、私はとりあえずその場を離れることにしました。
そうするとおじいさんは「今年も暑いからね、体に気を付けてね!!」と言って下さいました。
ところで最近、リジューの聖テレーズの伝記や聖ベルナデッタの本を読んでいるのですが、その本を読んでいて気付いたことがあります。
あのとき、私はおじいさんにお礼を言われる前に静かに立ち去らなければいけなかったのです。
マザーは、貧しい人の中にこそイエスはいる、と言いました。
そして私はそのような方にお礼を言わせてしまったのです。(しかも土下座付きで)
…話を戻しましょう。
ともかく私はその場を急いで立ち去りました。
ほかの人にどう思われているか気になって落ち着かず、おじいさんがあのお金を誰かに奪われたりしないか不安で落ち着かず…
家に帰って同居人にその話をしたら、お金の無駄だと一蹴されました。
今ではそんなことを言った彼も改心していますが、当時は理解できなかったようです。
母にも話してみました。
母も、やったことは良い事だけどそれは余裕のある人間がやることだ、と言いました。
言いたいことはわかります。ええ。
でもそれは違うのです。
貧しかろうが富んでいようが、貧しい人に手を差し伸べる。それこそマザーやベルナデッタが言っていた一番大事なことです。
このお話は今から3、4年ほど前のことですが、今でも昨日のことのように思い出せます。
そしてそれ以降、不思議なことにホームレスの方をお見掛けしなくなりました。
どこにいっても、です。(探しにいったことはありません。通り道などで見かけないという意味です)
私はあの経験を忘れず「貧しい人の中で最も貧しい人のために奉仕する」ことを目標として生きたマザーに倣いたいと思います。
alice.